大慈寺創建と秋田討伐この秋田戦争の勝利から、もう一つ新しく 生まれたものがあります。 それは現在の南部家の家紋の「向い鶴」です。 「双鶴紋」とも呼ばれ、丸い輪の中に、 二羽の鶴が向き合い、鶴の胸の中に、九曜の 星が配されています。 この家紋は、三戸南部家の十三代守行が、 根城の殿様の光経の戦勝報告を受け、 (南部家代々使用の家紋の割菱(わりびし)の ほかに、改めて向い鶴紋を使用する) ということになりました。
根城南部家では、我が家は末家であるので 遠慮して、輪の無い向い鶴紋を使用する ことにしました。 この輪の無い向い鶴紋は、今も遠野南部家 に受け継がれています。 応永十九年正月十日、大慈寺住職になった 宝山正弥和尚は、新年のご挨拶に、根城の お城を訪れ、殿様にお目にかかりました。 殿様は和尚の登城を大変によろこばれ、 正月料理でもてなしました。 その時、料理の器物には、新しく定められた 向い鶴紋の付いたものが使用されました。 これが先例となり、大慈寺の住職が正月に お城に登ると、必ず向い鶴紋の付いた器で、 おもてなしがあったと伝えられております。
以上のように大慈寺開山について、 宝山正弥和尚は記録に残されておりますが、 (根城南部家の菩提所松舘大慈寺の世代は 殆んど知られていない) 「八千とせの松 上杉修」とあり 「御領内寺院由来」にも松舘大慈寺について (開山開基共に年序詳かならず)とあり、 盛岡の殿様利直公中興開基として、 江戸時代に入ってから、遠野へ移ったあとの 松舘の大慈寺の歴史が始まったことが 記されています。