福聚山大慈寺ふくじゅさんだいじじ

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大慈寺の歴史



応永17年(1410)、南部の嫡家十三代守行は
隣国出羽の領主安藤鹿季(かのすえ)が、守行公の
領内に侵入して来たため、根城南部九代長経十代光経
に出撃を要請しました。

ところが地理に暗い南部軍は、苦戦の連続でした。
そんな折に、1人の老僧が陣中を訪れ
「この先に秋田側では、伏兵を配置して待ちかまえ
ています。用心なさい」と言い立ち去りました。

この老僧のおかけで南部軍は勝利をおさめ、
帰国することができました。
 
この敵の様子を知らせてくれた寶山正彌(珍)
(ほざんしょうや・ちん)和尚を尋ね求め、
八戸に招いて八戸の松舘に一寺を営構して
「福聚山大慈寺」と号し田料百石を寄進して、
根城南部氏の菩提寺としました。

このことにより大慈寺は松館の地に
根城南部九代長経を開基殿として開山しました。

寶山は師僧の龍谷寺(石川県金沢市)
二世龍傳慧金(りゅうでんえきん)大和尚を
開山和尚に勧請し、自らは2世となりました。

応永18年(1411)のことです。

ところが、寛永4(1627)盛岡南部初代利直の
命により伊達領との境を守るために根城南部は
岩手県遠野へ国替えになり、大慈寺も共に
遠野へ移ってしまいました。 

明治36年発行の『糠部五郡小史』によると
「その後の八戸は盛岡南部領となるも八戸殿移封
により人家まばらになり大慈寺の住持も無く廃れ
つつあったところに、盛岡南部利直公が
寛永5年(1628)に鹿角(祝融山)
萬松寺三世虎山玄龍(こざんげんりゅう)和尚を招き
五十石を寄進して中興開山とした」
と伝えられています。

その後江戸時代の寛文4年(1664)になると、
幕府の指示で八戸藩(二万石)が生れ、大慈寺は
寺領五十石をおくられました。

八戸の城下町が整備され発展するにつれ松舘は
遠くて不便だというので四世の明岩幡察和尚は
糠塚(現在地)に宿寺(出張所)を建てました。

さらに十六世の文要和尚は、天保年間の初めの頃、
現在の地に大慈寺を建て、本寺を松舘から糠塚へ
移すことにしました。

松舘は檀家の関係もあり、末寺としてそのまま残す
ことにしました。

祖院とも考えられる松舘と、糠塚と両大慈寺が
同じ名前のまま独立し、正式に本寺と末寺になった
のは、明治21年のことでした。

ちなみに、現在の山門(八戸市文化財)が完成した
のは、棟札によれば天保2年(1831)4月と
書きしるされています。


詳しく知るためには、↓

  • 大慈寺創建と秋田征伐

  • 寺院 散策写真


    曹洞宗

    福聚山 大慈寺

    住所:八戸市長者1丁目6−59

    電話番号:0178-22-1856