禅師逝いて百年、その学風、徳風、感化は、 西有穆山禅師の住職地をはじめ、感化を受けた 人々によって今も全国は勿論、海外までに、 生かされている。 八戸市の穆山顕彰会では、百回忌に当たり、 禅師の墨蹟遺品等の展示会、講演そして、 記念誌の発行の事業を展開している。 曹洞宗墨蹟研究会では、これを機に八戸市の 福聚山大慈寺を主会場に総会、 研究会を開催することになった。 会場主として、近郊に於いて今でも語り 継がれている、禅師の機知と慈悲に富み 洒脱した、事績を訪ねてみる。 夢多き萬吉少年は十三歳になり、両親から その願いが許され、菩提寺長流寺住職金竜和尚に ついて得度剃髪し金英上座となった。 この受業師金竜師は性格恬淡、真に闊達な人格で、 多感な少年金英上座に及ぼした影響が大きかった に違いない。 長流寺の檀家に鳥好きの爺さんがいて、 和尚に会う度に「和尚さん、私が死んだら鳥に 関係ある戒名をつけてください」とお願いして いましたが、やがてその日が来て、鳥好き 爺さんに引導を渡すことになった。 金竜和尚さんはまず 雁鴨白鳥信士 と戒名を授けた。 そして法語は「唐にて鳳凰を神鳥として尊び、 天竺の人孔雀を愛し、雁は長空千里 高処を飛翔し、 鴨は山蔭沼沢に身を潜め、雲に一如する白鳥の如し。 大和の国は陸奥の里、長流寺庭の梅花、 鶯法法華経の功徳無尽。烏 喝」と秉炬引導した ということです。 この禅気に含まれたユーモアな風格は、 感受性強い少年金英上座の胸に深く刻まれた。 師匠の感化を受けた、禅師は臨機応変、自由闊達の 教化活動をしておられる。 今、それらの足跡を訪ねてみる。東北巡教のおり、岩手県花巻市の松山寺において、 住職が山号額の揮亳をお願いしたので、 禅師が雄渾な筆法で「松山寺」と書かれ、 侍者が縁側にかわかして置いたところ、 子供がその上を歩き回って足跡をつけ てしまった。 住職は恐縮して禅師にお詫びしたところ、 イヤイヤ心配は要らぬ、衲が御祈祷してあげよう と住職をなぐさめて 「阿し跡の多へぬ寺こそ めでたけ礼 帰依する人のおほければな利」
と歌い墨書され、子供の足跡を生かし、ほめて、 恐縮している住職を救ってやったのである。 山号額を見ますと、山の上に子供の足跡がある、 松は枯れることもある、寺は倒壊することもある、 山は泰然と臥している、足跡は見る者に公案を 現成しているようだ。 次に、達磨さんと芸者が向かい合っている 絵画(八戸市坂本稔三氏所蔵)に賛を頼まれて 「達磨さん、九年面壁何のその、わたしゃ 十年憂き勤め、煩悩菩提の二筋に、誠の心の 一筋を、加えて三筋で世を渡る。 糸が切れたら成仏と、客を相手に のむ(飲むー南無)阿弥陀、済度なさると、 なさらぬは、それは、あなたの御量見、 外に余念はないわいな」と即興に画賛した。 この句は、意に適い、妙に即して闊達、見事に 不染汚な法を説いている。 拙僧の兼務地、南祖院が在る十和田湖を愛し、 世に知らしめた詩人大町桂月氏をして 「吾々三文文士の到底及ばざるところ」と 激賞している。
次に、これも岩手県盛岡市から八戸に向かう 山中の出来事である。禅師が乗っていた駕籠が、 急な崖道に差しかかった時に、駕籠の底が抜けて、 あわや転落という危険な状態になった。 随行の者達が慌てて「申し訳ありません」 とお詫びすると、禅師は間髪を入れず、 「古かごの底のぬけると死ぬるとは 所きらわず 時をえらばず」 と即詠し、一同を安心させ、且つ禅師の剛胆さに 感動したと伝えている。
穆山禅師の、ユーモア洒落の力量は、師匠の 金竜和尚様に七年間随身し、親しく訓育を受け、 其の禅機横溢な風格を、強くうけ継いだ所が 多大である。 又冷静沈着の魂胆は、禅師が仙台松音寺修学時代に、 天保の大飢饉に遭遇し、屍の山を行脚し、 墳墓に座して無常を強く悟り、随所に主たる心根を 涵養した事によると思われる。 禅師の詠われた句は、物質的に豊かな現在に生き、 愚道に走りがちな、我われにとって、求道心とは 何かを自問する警鐘と響いてなりません。 福聚山大慈寺住職吉田隆法