その9 錫杖が鳴れど動ぜず 大慈寺住職 吉田隆法
当時正法眼蔵大家の月潭老人住職の海蔵寺 での修行時代の出来事です。 金英和尚三十歳になり、真の大善智識で あると判断した、小田原の海臧寺の 月潭老人を訪問して、 門弟にして下さいと願った。 時に、月潭老人曰く 「わしのとこには食べ物がない、 置くことはできぬ」 と冷たく断られた。 金英和尚 「食べ物はわたし達が心配します、 置いて頂きさえへれば結構です」 月潭「じゃ、勝手にしろ」という訳で 安居修行が許された。 当時月潭和尚門下には、森田悟由、 畔上楳仙、西有穆山(金英)の三師 (後に禅師)の他、原坦山等常に 雲衲が四、五十人雲集していました。 金英和尚は典座、楳仙和尚は侍者と 云う役職で瑾英和尚が上役でした。 雲衲達は自給自足支弁のため、毎日 城下町小田原方面に托鉢にでかけました。 ある日の時、楳仙師化主として先頭、 瑾英和尚は導師として後方を雁行して 行きました。 町の人々は応量器にお米、現金等を入れて 施してくれます。 中に奇特な人がおりまして、雲衲の体力、 気力増進の為とお酒を入れて呉れることも ありました。 先頭の楳仙和尚が応量器にお酒を頂き(約一升)、 街はずれにさしかかると金英和尚、それを受取り、 一気に六分位飲みほして、のこりを楳仙和尚に わたすのが通例となっていました。 役は下であるが無二の親友同志である、 楳仙和尚 「うむ、大概飲まれてしまったな」と、 ある日、一事を公案し、小路に入り、 列を離れて一気に七八分飲みほし、残りを 金英和尚に知らぬふりして渡して頬笑む。 これを知りし金英和尚以後の托鉢において、 先頭に居る楳仙和尚が列を離れるや否や、 最後列に居る金英和尚が導師の指揮杖で ある錫杖を、ガチャガチャと激しく鳴らして、 「列を乱すな」と怒鳴った。 しかし、先頭と最後と離れているから、 楳仙和尚聞こえぬふりをして相変らず 七八分飲んで、残りを金英和尚に渡すのであった。 金英和尚、 「ウム、やりおるは、今度は拙僧が先頭を 勤めてつかわそう」と思慮されたに違いない。 以上が月潭門下二人の、傑僧の臨機応変、 闊達自在の物語です。 ※月潭和尚は雅に劣るとして 金英を瑾英と改名しました。絵伝逸話