福聚山大慈寺ふくじゅさんだいじじ

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絵伝逸話その7


その7 父の訃報に接して帰郷、母の激励を受ける   


大慈寺住職 吉田隆法



西有禅師(金英)
嘉永二年【一八四九】
金英和尚二十九歳の頃の事です。

学問もあり、座禅もしている優秀な指導者として、
江戸の宗教界に活躍していた折、
故郷八戸より「父死せり」の訃報に接しました。

金英和尚早速帰郷して、
父の仏事万端を済ませました。

誰から話がでたか、一致して金英和尚を八戸に
留めようという意見がまとまり、
一同熱心に勧誘いたしました。

金英和尚も故郷に錦を飾り、
東北一の学力徳望を思う存分発揮してみたい
という気持ちになったのも
無理からぬことであります。

この無理からぬこと、人情的なことには、
普通の人なら賛同致します。

所が金英和尚の母親なをさんは、
これを聞いて大変悲しみ、且つ怒られ、
金英和尚を自分の部屋に呼び入れ、

「金英や、聞くところによると、
お前は、八戸に留まるきもちらしいが、
汝聞かずや、古来より偉人は一生涯の
勉励努力を肝要とする。
十年に満たざる修行を以って、
奥州第一の学僧なりと、慢心したのか、
又、汝が出家に際して何と誓いしや、
この地に留まって、地獄の先達となる気か、
すぐさま江戸に帰って一層の修行をすればよし、
八戸に留まるが如き解怠慢心を持つならば、
親と思うな、子とも思わぬ」

と、厳しく訓戒したのであります。

金英和尚は、故郷の法類や友人の一端としたい。
自分が母親に孝養を尽し乍ら故郷の
人々の為に活動するのが、
決して無意味ではない。

間違っていない……と考えて暫く地方を
中心とした教化活動をしようか…。

と心を動かしたのであります。

しかし、金英和尚の心に母親の必死の愛情が、
強く伝わりました。

「母上申し訳ありませんでした。
母上の仰せの通り、直ぐ江戸に戻ります。
お心を痛めて申し訳ありません」とお詫びして、
旅支度を始めたのであります。

金英和尚は、真底から、深く、母親にお詫びして、
生家を辞したのであります。

母親は玄関に立って

「日本一の出家となり、父母を間違いなく
極楽に案内できる先達となるまでは、断じて、
この敷居をまたいではなりません」

と涙一滴こぼさず叱るように、
強い言葉で見送ったのであります。

金英和尚母に別れの合掌し直ちに江戸に戻りました。
後年、この時の母を追慕して語られた。

「わが母は実に善知識とも菩薩とも、
たとえようのない有りがたい人であった。
苦しあの三十のとき帰郷きたまま奥州の
片田舎に居たならば、やはり百姓仲間の半僧坊で
暮らすのであった。
今日の穆山あるは全く慈母の賜である。
世の婦人たちもこの辺は大いに注意して
もらわねばならぬ」



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