その6 裸の先生、袷の生徒 大慈寺住職 吉田隆法
西有禅師(金英)、天保十三年(1842)21〜22歳 の頃の出来事です。 金英が、駒込吉祥寺学寮の栴檀林(駒沢大学 の前身)に於いて勉学研鑽した頃に、吉祥寺の 門前に菊池竹庵と云う儒者がおりました。 この人は初め信州(長野)松本藩に仕えて藩学 の教授をしていた学者でした。 その性質が至って豪放磊落(らいらく)で拘束な 奉公の出来ぬところから、松本を出て江戸に 於いて、自宅で漢学の教授をしておりました。 かかる先生であるから、行儀作法などは少しも 頓着しないので、自然と人気を損じて不行儀先生 とまで評判される程であった。 されば栴檀林に二百人も在学して居ったけれども 誰一人として先生の門に学ぶ者がなかったほどで あった。 「行儀作法は先生に学ぶ所でない。先生の学問は 我の学ぶ所である。一芸に秀(ひい)でたるものを みだりに誹謗して之に学ばざることは、つまり 自己の不徳と云うべきである」と かくて金英は毎日、不行儀先生の門に出入して 勤学しつつあったのである。 それは或る真夏の午後であった。竹庵先生は 「熱い〃〃、どうにもたまらん」と云うかと思うと、 褌(ふんどし)一本の素っ裸になり、見台の前に 胡坐(あぐら)かき、団扇(うちわ)を手にしながら 講義をすすめる。 先生、ふと金英に眼を注(そそ)げるに、金英は この炎天に袷を着用して聴講するものであるから、 先生講義を止めて問うに 「お前はなんだ、袷を着て汗を流しつ〃聴講して おるではないか」ここに於いて金英やむなく 「赤貧にして単衣一枚を用意することが出来ず、 さりとて裸体で先生の門に出入りすることが 出来ぬものですから、袷を着用して通学しています」 と答える。 奇なる哉、一方は裸体、一方は袷、実に判じ物の ようでありました。 西有穆山禅師が後年このことを思い出された談話に 『暑中袷一枚の財産、さりとて此の袷も夏のことで あるから、洗濯せぬわけにゆかぬ。是非もなく夜分に 洗濯したのじゃ。昼は外出せねばならぬから夜の洗濯さ、 そうしてこれが乾く間には一反風呂敷を頭からかぶり、 これを蚊帳と布団と着物の三つに代用したのさ、 所謂(いわゆる)風呂敷一枚が、三役兼帯と云う有様で あったのだ。今から考えると実に面白い笑い草では ないか』と 実に面白い笑い草どころでない、後世に残すべき最も ありがたく、尊い千古の教訓談であります。絵伝逸話