その4 あわのつらさ 大慈寺住職 吉田隆法絵伝逸話天保五年(一八三三)禅師十四歳から十八歳の時の出来事です。 金龍師匠が名久井法光寺第二十六世として晋山し、 穆山禅師金英と名乗り、多感な青春時代の1こまです。 法光寺には兄弟子として、先代の譲り弟子がおりました。 その兄弟子が檀家の後家さんと懇ろになりました、 修行寺であり、又出家の身でもありますから、 毎日通うと云うわけにはいきません。 ある日のこと、金英がその後家宅に法事に行きました。 御勤めも終わり、御膳が出て、お酒も用意されました。 後家さん茶碗になみなみ注いで「ガブガブ」と飲みほして、 「サアー和尚さんも召し上がれ」と云って、 なみなみと飯碗に注いですすめました。 金英も、ガブガブ飲みほして云うには。 「おかみさん、どうしてそんなにガブガブ飲むのですか」 と尋ねます。 すると後家さん「逢わぬつらさで、やけで飲む」と答えて、 「和尚さんは何故ガブガブ飲むのですか」と聞き返しました。 金英、即座に「粟(粟粥)のつらさで、やけに飲む」 と洒落て答えました。 若き禅師の即興頓智に感嘆させられる。 当時、全国的に起こった天保の大飢饉で、 法光寺のある南部藩も大農村は荒廃し、凶作が続き、 寺の食事はわずかばかりの粟の天井粥であった。 時折弟子たちは住職の代理として、檀家の法事に用意される 御馳走が楽しみであったと推察されます。 ★岸沢惟安 先師西有穆山和尚 顕彰会 あはのつらさ 金龍和尚が病気になったので、金英の兄弟子が代理を つとめていた。 この弟子が門前の後家さんとどうかしていたので、 ときどき寺にきて兄弟子と酒を飲んだ。 あるときに兄弟子は後家さんのがぶがぶ飲むのを見て、 「何でそんなにがぶがぶ飲むか」 と聞くと、後家さんが、 「逢わぬつらさでやけに飲む」 と、言った。兄弟子はそばに聞いていた金英にも 口つぶさげのために、一盃飲めとすすめると、 小僧よい気になってがぶがぶやった。 それを見た兄弟子が 「小僧どうしてそんなにがぶがぶ飲むのだ」 と、言うと小僧平然として、 「粟のつらさでやけで飲む」 と、やつてのけた。 これは毎日粟のご飯ばかり食べていたので、 やけになったのだそうです。 後家さんは逢はぬつらさ、小僧は粟のつらさ、 そのあたり仏様の金口の御説法をお聞きもうしておるものも、 その根器根器に従って、うけとり方が違うとありますが、 なるほど逢わぬつらさと、粟のつらさがありましょうよ。