福聚山大慈寺ふくじゅさんだいじじ

トップページ   寺院案内   歴史   年間行事   福聚便り   法話と伝道   大慈寺調査報告書
       西有穆山について   寺宝   交通   歴史年表   仏教行事について  新聞記事 




絵伝逸話その11


その11 一升徳利と生首


大慈寺住職 吉田隆法







穆山禅師が進住された牛込の宗参寺は
徳川家の御朱印付の菩提所でありました。
明治元年(一八六八年)穆山師四十八歳
の時の出来事で。

穆山禅師、宗参時代となって
七ヶ年の星霜を重ね、檀信徒の信頼上下を
通じて絶対となりました。

ここに、戊辰戦争で佐幕派の彰義隊が、
上野の森にたてこもって政府に
一矢を報いんとして立ちあがりました。

これが彰義隊の乱です。

この彰義隊に参加した宗参寺の檀徒、
徳川家旗本室賀甲斐守は追われて
宗参寺に逃げこんで来ました。

檀徒に信頼されている穆山師咄嵯に
本堂の須弥壇にかくまってこれを助けました。

官軍二百余人来りて宗参寺を包囲し、
代表七名寺内に侵入し、
血相変えて叫んで曰く。

官軍「室賀は間違いなく、
この寺に逃げこんだ。
それを見て知らせた者がおる渡してもらう。」

穆山「いや、室賀は居らぬ。」

官軍「おらぬ筈はない。
家捜しをするがよいか?」

穆山「家捜しするとな。
僧侶たる私の言うことを信ぜず、
家捜しして居らぬ時は何とする。
全員腹かき切ってわびをするか。」

官軍「ヨシ和尚、あくまでも室賀を
隠匿して渡さぬとあらば、
此の上は是非に及ばぬ、
和尚の生首を持って帰るよりほかはない」

穆山「ヨシ我首を汝らに渡すとしよう。
しかし僧侶の分際として
此の様では死なれない、
しばし装束を改め観念入定するまで待て。」

と別室から法衣、袈裟をかけてもどると

官軍「よし、それでは。覚悟を。」
と今まさに刀を抜かんとす。

穆山「持て、支度も出来た。衲はな、
平生嗜む一杯の酒を飲みて死にたい、
冥土の土産に酒を飲ましてくれ。」

官軍[よかろう。]

穆山台所より貧乏徳利一本を持参し、
これを大杯に盛り、一、ニ杯傾けた。

官軍代表七人の前に坐禅をくんで、
チビリチビリ飲み出した。

これを見ていた目の前の一人
舌なめずりをした。

穆山すかさず、「どうだ諸君も一杯やらんか。」
と杯を差し出した。

官軍の一人思わず手を出して杯を取る。

穆山さっとなみなみとつんでやった。

官軍うまそうに飲みほした。

貴公も、ともう一人の隊長らしき
前に坐っている者にも飲ませた。

ここで穆山しめた、と思い

穆山「貴公達、どうせ拙僧の生首は
差しあげるから、拙僧の話しを聞いてくれ。」

官軍「よかろう。」

穆山「諸君が諸君の藩主に従って、
朝廷に御奉公する義心も、
室賀が徳川家の徒臣として
長らく恩顧を受けた徳川に殉ぜんとするのも、
忠義、義心に於て変りがないではないか。
貴公等の目指している
これからの新日本建設は
逃げる者は追わず、弱き者は助けてやった
赤穂四十七士の義士の精神に
よらざれば出来ない難事業であるぞ。
その精神の提唱者山鹿素行先生が
そこに眠ってござる。
まあ、衲のいう真意が分ったら、
何時でも衲の生首を持ってゆくがよい。」

と泰然自若として死線上の説明をなし終った。

官軍達「この和尚、どえらい和尚だ。
後日何かの役に立つだろう。」
といって立ち去った。

この事件が縁となって西郷隆盛が
西有穆山師を知る事となり、
しばしば会見している。

剣刃上に座してなお綽々とし、
余裕をもって好きな酒を飲みつつ、
相手を説き伏せたことは、
後に禅師自ら、
「自分の一生を仮にあの事件までとすれば
自分が生涯座禅て鍛え、
学問で修めた決断と智慧とは、
この刹那に表れて来た」
と語られています。

「時人を待たず、更に何れの時おか待たん」
道元禅師様が示された如く、
その時、所に、活き、生かされている事を
真剣にとらえ歩むべき事を提唱されている。


絵伝逸話

寺院 散策写真


曹洞宗

福聚山 大慈寺

住所:八戸市長者1丁目6−59

電話番号:0178-22-1856