福聚山大慈寺ふくじゅさんだいじじ

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絵伝逸話その10


その10 雪団熱湯裏に豁然として大悟 


大慈寺住職 吉田隆法







安政六年(一八五九年)瑾英三十九歳となる。
月潭老人は、この辺で坐禅専門の道場に
行ってみたらどうだろうと勧めて、
前橋市の竜海院に諸嶽奕堂師
(後の大本山総持寺独往一世)の
門をたたかせた。

奕堂門下には百人以上の修行僧が雲集していた。

堂師は瑾英を一見して、
凡人に非ざるを看破し、
ただちに副寺(財政部長)に抜擢し、
毎月の一日、十五日の小参
(修学僧が問答すること)には
払子(導師を勤める道具)を
瑾英和尚にわたして、
「小参は副寺和尚に一任す」といって
自分は方丈の間へ帰られた。

その直後、本堂では火の出るような
命がけの法戦問答が闘かわされた。

瑾英和尚の行解(坐禅と学と学問)
両全の人格の力量が、
修行僧の質問に対して烈火の如く爆発し、
激流の如く奔流したのである。

既に瑾英和尚は一家の大宗将であった。

当時早くもその道誉称賛が
大本山永平寺にも聞えて、
瑾英和尚は不老閣(永平寺貫首の室)に
登って靈堂禅師に相見するに至った。

万延元年(一八六〇年)四十歳の時、
瑾英和尚、奕堂老師の専使として、
沼田市迦葉山竜華院に趣き、
帰途紛々と吹きしきる雪中に
射体をこおらして帰り、
オー寒いといいながら、
行者の出した盥の熱湯に足を入れてしまった。

「あ!あつい」と叫んで足をひきあげる刹那、
行者がすばやく庭にとび出し、
かかえてきた雪のかたまりを湯の中にたたきこんだ。

雪はしゅっと音を立てて溶けてしまった。

瑾英和尚これを見て豁然と大悟した。

小にして人間個々人に於ても、
大にして宇宙天地全体
に於ても原形そのままで停止したり、
人間の欲望のままになるものはない。

春夏秋冬の変化は自然の法則、春来れば百花爛漫、
秋来れば万山紅葉、 
『春は花 夏ほととぎす 
秋は月 冬雪さえて冷しかりけり』――
の宗祖道元禅師の親訓がここにも露現したのであります。

それを我々人間は冷たいといって苦情をいい、
熱い!と叫んで力んでみたり、
雪のかたまりを投げ込んで洗足盥を
ひっくりかえして、大騒ぎしたり
大笑いしたりしている一駒を、
自分も演じたものであるわい。

とうたって、方丈の間に上り、
奕堂師に一部始終を報告申し上げてから更に静かに、
等閑りに口を開いて心肝を吐く 
漸愧す従来習気の残すを 
地の身を容るる無し何が歩を転ぜん 
この時知んぬ棒頭を免かること難きを 
そしてその光景否真実の相を 
雪団を把って熱湯に投ずれば 
乾坤撲落して妙高僵る 
知らず今日何の時節ぞ 
銀槃を賜倒して笑い一場(原漢詩)
「雪のかたまりを把って熱湯に投げ入れると、
しゅっという音と、
立ちのぼる水蒸気になってしまって、
雪の形もなく、又熱湯そのものもない。

この宇宙も天地も亦同様に打ち落され、
その背骨をなしている須弥山も崩れ落ちて、
雲散霧消してしまった。

一尺も降り積った雪に冷たい寒いと思って、
身も心もかたくして帰り来たり、
思わず熱湯に足を踏み入れて、
「アッーあつい!」と叫んだのも、
雪が熱湯にとけて、しゅっと音を立てたのも、
みな任運自然、時節の一片に過ぬ、
そもそも我々人間の我見妄情によって
維持され支配されるものは、
時間的には一瞬一時節と雖も、
空間的には、六尺足らずの身と 
雖も無常にして常住ならざるものはない。」
という一偈を呈上した。

突堂師はただちにその韻をふんで、
口を開けば即ち看る生鉄肝、
聞くに耐えたり声外菊香の残するを許す師が
持地三寸を伸べ虚空を喝破するも也た難からず
と印可せられた。

これに対して瑾英和尚は更に韻を重ねて、
宗師に

 請うて鉄肝を砕かんと欲す啼くを
止めて還って恨む藕紙の残するを
自ら慚づ平日純密ならざることを
 重々の金鎖を脱得すること難しといって
印可を返上申し上げると、
奕堂師も更に韻をたたんで、
用いず樹頭柱げて肝を掛くることを
胸襟吐露又何ぞ残せん参禅学道は
須らく此の如くなるべし 
金鎖玄関豈に難とするに足らんやといって
印可証明せられたのであります。

昔の御師家様(最高指導者)は、
まことに叮嚀、親切で
頭がさがり涙が出て参ります!。



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