彼岸会の起源 彼岸会はインドや中国にはなく、日本で、はじめられた行事です。 その起源には諸説があり、一説に、聖徳太子の時代 (五七四〜六二一)に遡るといわれますが、最初の記録としては、 大同元年(八〇六)、崇神天皇のために国分寺の僧に、春秋二季 の七日間にわたり、金剛般若波羅蜜多経を転読させたのが 彼岸の行事のはじめといわれます。 彼岸会は平安時代の半ばには恒例の行事になっていたようです。 また彼岸を春分、秋分の日(の前後七日)にさだめたのは、 次のことが起源とされます。 中国、唐代の僧で中国浄土教を大成した善導大師の 『観無量寿経疏』の中に「念仏して西方浄土の往生を願うには、 春(三月)・秋(九月)の、日が真西に没する時期がもっとも ふさわしい。 なぜなら浄土は日が没する真西の方位にあり、その方位を念じて 往生を願うことは浄土を観想するにふさわしいからだ」という 意味のことが説かれています。 つまり浄土教の説によれば、彼岸は西方浄土であり、 浄土を念ずる日である、ということになるでしょう。 また別の説明もあります。 在家の人は普段は生業に忙しく、仏道を修行したり、善根功徳を 積むことが容易ではない。 そこで春秋二季の七日間、悪を止め、善事を実行する週間と 定めたのが、彼岸の行事である、というものです。 なお戦後の一九四八年に制定された「国民の祝日に関する法律」 によれば、春分の日は「自然をたたえ、生物をいつくしむ日」 であり、秋分の日は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ日」 とされています。 また春分・秋分の日が「中日」と定められたのは天保十五年 (一八四四)の天保暦からです。 平成二十九年三月 福聚山大慈寺 布教部