福聚山大慈寺ふくじゅさんだいじじ

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各地に寺院建立と開教活動


さて、茲で年時の順を踏まずに各地に寺院を建立し、
且、布教活動した代表的なことを述べます。

@  札幌市に中央寺建立
   明治七年、大教院の命により、曹洞宗管長代理
     として、北海道に向う為横浜市の広島屋に投宿。

A  北海道開拓庁判官松本十郎と十日間の大問答を
     した結果、松本判官、穆山師の無二の信者と
     なる。

   札幌市南二条に一万坪の地を提供し、
     小教院を建立して、北海道の精神開拓の根據と
     した。

   後の中央寺これ也。

   穆山師が開基となり、親しかりし永平寺貫首
   環溪禅師を勧請開山となし、中央寺を永平寺
   の直末寺院とした。

     昭和六十年一月遷化した秦慧玉禅師は
     孫門弟である。

B  明治十年四月懇請されて静岡県可睡斎
    (拾万石待遇)住職となり可翁と号す。

C  明治十年四月曹洞宗本校(後の駒沢大学)の
     教授となる。(七十二歳)。

     翌十一年、八戸市光竜寺を法地開山して東奥の
     大靈場となさんとす。

    明治十二年八月八戸市光竜寺に三尺坊大権現鎮座
     を許可す。

D  明治十三年五月十日、八戸市長流寺へ薬師如来
     一体を送与し、受業師金竜和尚及び父母の恩に
     報謝す。

     且、金竜恩師の墓碑を建立し、法号遷化年月日を
     自書して報恩の赤誠を献げている。

E一、明治十四年一月、可睡斎に敲唱会を組織して、
     道心の振起を計る。

 二、再び選ばれて、大本山大会議議員となり、
      推されて議長となるも辞して受けず。

 三、九月二十八日
   高祖承陽大師御靈骨三顆を大本山永平寺より、
      正法眼蔵重雲堂式の巻奉納と、正法眼蔵提唱
      高祖承陽大師の顕彰の功により贈与さる。
      宗門人として未だかつて無き将来も無からん
      特別の表彰である。

  四、同月同日、青森県名川町法光寺住職となり、
      常恒会開闢となる。

 五、万松学校(可睡斎に)創立、門弟を教育し
      常恒に正法眼蔵を提唱し、大眼蔵会を開催
      した。門弟二百人以上常詰となる。
   後の大学林教頭(学長)筒井方外、総持寺
      貫首秋野孝道、駒沢大学長丘宗潭及び小塚
      仏宗の各師が、その竜象である。

 六、夏、六十一歳で再び北海道を巡教し、帰途
      八戸に慈母を訪問し、孝養を尽す。

F一、明治十五年三月母なを死亡、行年八十二歳
      なりき。
      十二月、高祖承陽大師の御靈骨奉安殿を
      光竜寺より法光寺に変更して建立することを
      許可す。

 二、十六年二月十一日、権大教正に任ぜらる。

 三、八戸市小中野町に魚藍山常現寺を開創し、
      交趾国王作の魚藍観音像を贈与して本尊と
      なす。

G一、明治十九年、静岡県源性庵に安置しありし
      地蔵尊像を俗弟笹本長次郎宛に送与す。
      現在常現寺に安置されている。

 二、二月、大本山水平寺西堂に任ぜらる。

 三、毎月両親の命日に、可睡斎安居の門弟
      百二十数名に報恩謝徳の供養をした。

 四、可睡斎御前様(住職)自ら、枯葉や落葉で
      お風呂をたき、節約の範を示した。

H一、明治二十五年、五月五日、曹洞宗管長
      事務取扱に任ぜられ、水平寺、総持寺の
      総本山問題の抗争に対し、永平寺貫首森田
      禅師、総持寺貫首畔上禅師の両者と協議して
      両大本山盟約を履行して両山が抗争せぬこと
      に解決した。

 二、日置黙仙師を後住として、可睡斎を退董した。

I一、明治二十六年、横浜市野毛山に万徳寺を開創
      し、可睡斎の末寺とす。

 二、明治二十九年八月、八戸市白銀町福昌寺に
      三陸海嘯溺死者亡霊碑文及び碑陰を送与し、
      記念碑を建てしむ。

  三、明治三十三年、八十歳、島田市の伝心寺に
      入寺した。岸沢惟安来って弟子となる。
   年三十二歳、既に居士として眼蔵の提唱を
      聴き、漢学者、詩人として知名、禅師大いに
      期待す。

J  明治三十四年三月二十五日、西有寺入寺式
 一、人寺式の模様
   西有寺の入寺式には、大臣、陸海軍の将軍、
      県知事等文武百官が臨席した。これは形式的、
      或は儀礼的に名をつらねたのでなく、心から
      偉大な宗教家が京濱の地に来られた事を悦ん
      で出席した事を、拙職が西有寺専門僧堂教官
      勤務中に、西有寺関係の僧俗各位から聞か
      されました。

 二、文武高官の臨席した理由(明治政府の役員勤務)
   穆山師は、明治政府の役職である教導職大講義、
      大教院議員、同議長を勤務。

     穆山師の西有寺入寺式に、大臣等の文武百官
      が臨席した理由は、穆山師が桐生市の鳳仙寺
      住職時代即ち明治五年より同十年まで約六年間、
      時恰も明治政府が「神仏分離」慶応四年発布、
      仏教教団でやっていた神事、神祭を分離し独立
      させ、神職(分離以前は所謂別当職で大寺院の
      事務職であった)の宗教的及び社会的位置を
      高める為に発令した悪法令である。

   この悪法令が爆発の発火点となり、廃仏毀釈
   の暴政を敢行した。

   これは、水戸学や、平田篤胤の学風をうけた
   国粋主義者及びその影響下にあった擔板漢的
   政治家の行き過ぎであった。

   彼等は、国民の心の糧となっている仏教を
   異端視し、邪教視して、 神道の国粋性―
   それは、合理性も、合倫理性も、合普偏性も、
   合国際性もなかった―を高揚し、 仏教組織を
   行政の強権を以て圧迫し、仏堂を破壊し、
   仏像、仏具、経典を焼き払い、僧侶に「祝詞」
      と「祭文」をあげることを強要し、或は還俗を
      勧告し、大寺院の山門の前に小さな鳥居を立てて
      神社なりと称して強奪する等野蛮的暴力的狂乱
      政策を敢行したのが明治初当政府の廃仏毀釈の
      実体であった。
 
      瑾英師が、こうした狂乱的暴力行政の源泉である
      神道国教主義者と能く戦い、能く説得して、
      仏教の破滅を防ぎ、自由主義、人格主義、
      国際協調主義、博愛平和主義の新仏教、正法確立
      の先駆者として活躍したのが桐生市の鳳仙寺時代
      である。
 
      瑾英師は、政府の廃仏毀釈の暴政に対して外部
      で遠吠えしているよりも内部に入って直接阻止し、
      改革した方が賢明であり早道であると思考した。

      瑾英師は、明治六年五十三歳の三月に教部省の
      召換に応じて上京し、いろいろ話し合いの結果、
      教導職中講義に就任し、尋いで大講義に昇進した。

      又、同年一月に禅三宗より選ばれて、大教院議員
      となり、政府の非道な廃仏毀釈の暴力政策に
      徹底的に抗戦し、その誤れるを是正せしめた。

三、衲は殺されても袈裟をかけ、法衣を着る。

  政府は、僧侶の法服、即ち袈裟をかけ、法衣を着る
    ことを禁止して、一般人と同様の着物を着用せよと
    議決した大教院の院議を、異議申し立てて、やり
    直しさせ、「従来通りでよし」と決議し直させた
    のは、瑾英師の不惜身命の活躍によるのである。

    瑾英師は「他はどうあれ、衲は殺されても袈裟を
    かけ、法衣を着る!」と頑張ったのであります。
   
    明治六年三月には、神仏道各派管長の依嘱を受け、
    宗教調査の大任を托せられた。同四月に、権少教正
    に補任され、両大本山代理を命ぜられ政府の宗教
    政策に対する曹洞宗の代表者として活躍した。
  
    又、「護法用心集」を発刊して政府の廃仏毀釈の
    非道を批判し、正法の護持と僧侶の大反省を求めて、
    自他内外に大警鐘を鳴らした。又、同年九月には
    北海道巡教を拝し、同十一月大本山大会議議員と
    なり、宗門行政の大綱を統攬したのである。

    以上の様に、明治政府初頭の廃仏毀釈の暴政に対し
    て、教部省の役人となって正論を述べて、反省
    せしめ、又、仏教徒に対しても徳川幕府の保護に
    甘えて堕落せる者に大覚醒を求めた大活躍は政府の
    要路者等にも知れ渡っており、感謝されていたから、
    横浜に来られて西有寺で入寺式を挙行することを
    知った、大臣、将軍等の文武両界のお歴々が参列
    したのは当然でありましょう。








穆山禅師略伝

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曹洞宗

福聚山 大慈寺

住所:八戸市長者1丁目6−59

電話番号:0178-22-1856