明治三十三年瑾英和尚八十歳となる。 瑾英和尚、京浜間を巡教中、横浜市財界の大物 太田治兵衛さんに「新しい寺を建てたら来てやる」 と口約束していたのである。 太田氏が、鎌倉の光明寺の旧本堂を買収して 中区大平町に新寺を建立し、瑾英師を開山として 拜請した。 これを聞いた瑾英師の熱心な信者、宮田牛岳居士が 猛然と反対した。 理由は「横浜は商業地帯で、仏法修行の場所には 適さない。もし伝心寺で生活が苦しいなら、東京の 信者達がどんな要求でも工風して教化設備もし、 生活も保障します」と熱誠あふれる長文の手紙を 瑾英師に寄せて横浜にゆかぬよう懇願した。 瑾英和尚は、その手紙を押し戴いて、 「有難うよ!さきに横浜の信者に懇望された時、 寺を立てたら来てやる。と約束した。その寺が 出未たのだから往かぬ分けにはいかぬ、火事に 焼け出されたと思えば苦にならぬ、半年の間 維持できれば、きっと仏法修行の道場にして みせる!」と返事を出し、敢然として約束実行 に起ちあがったのである。 瑾英師が可睡斎(十万石の収入寺)時代に用意 した貴重な御袈裟や法衣や白瑪瑙の念珠などを 売って、「これで、半年もてば、西有寺がきっと 叢林(修行道場)になるといって十五人の門下僧 をつれて、島田市の伝心寺を出て西有寺に 乗り込まれたのである。 当時のことを岸沢惟安老師(正法眼蔵大家で 眼蔵全講の著者)が「衲達弟子どもは、禅師の 袈裟、衣を食べて、修行させて戴いた!」 といって眼蔵提唱の度に泣いたものであります。 そして瑾英師自ら街頭に立つて市内の托鉢を せられた。 この姿を見た貴族院議員上野氏や渡辺銀行頭取等、 横浜の政財界の大物を始め多く人が感激して、 瑾英師の托鉢姿を拝み西有寺の信徒となり、 修行僧も瑾英師の徳を慕って雲集し、誰も彼も 働きながら参禅弁道して、無信仰といわれた 横浜商業都市にっ仏道修行並びに布教伝道の大道場 西有寺が忽ち出現したのである。 瑾英師は他の結制修行の助化師(最高指導者) も、また、授戒会の戒師もことわって、寸陰を 惜しみ、専ら西有寺に於て、竜象(すぐれた人物) の打出にっ専念せられたのである。 その気持を、西有寺の聯に、光明山上一切の群類を 照破し西有寺裏無量の仏陀を打出す(原漢詩) と強く刻みこんだのであります。 拙僧曹洞宗視学院を拝命し昭和五十七年度より、 西有寺専門僧堂を復活し現在西堂と云う専門僧堂 の最高役(大本山総持寺貫首秋野孝道禅師、 同じく栗山泰音禅師以外配役されなかった教育の 最高責任者)に任命されて、日夜に報恩の精神に 燃えている次第であります。 生涯、袈裟の米飯を喫した大恩を忘れません!穆山禅師略伝