明治元年(一八六八年)瑾英和尚四十八歳となる。 幕臣の智者勝海舟、時代の激流を察知し、智慧、能く 西郷隆盛の豪勇を制して江戸城を無血で開城し 新時代の夜明けとなる。 瑾英師、宗参寺住職となって七ヶ年目、あわや生首 をはねられんとした事件が起きた。 徳川三百年の恩顧を受けた家臣の純情派の一隊が 官軍の徳川家に対する処遇に義憤やむなく遂に 上野の森に立て籠もり政府に反省の一矢を報いた。 これが章義隊の乱である。 この彰義隊に参加した宗参寺の檀徒、室賀甲斐守 は追われて宗参寺に逃げこんだ。 檀徒に信頼されている瑾英住職咄嗟に本堂の須弥壇 にかくまってこれを助けた。 官軍二百余人来りて宗参寺を包囲し、代表七名寺内 に侵入し室賀の引渡しを要求す。 官軍「室賀は間違いなく、この寺に逃げ込んだ。 それを見て知らせた者がある。渡してもらおう!」 瑾英「いや、室賀は居らぬ」 官軍「居らぬ筈がない。屋捜しするがよいか?」 瑾英「屋捜しするとな!僧侶たる衲の言うことを 信ぜず、屋捜しして居らぬ時は何とする。全員 腹かき切ってわびをするか!」 官軍「貴僧、生意気な!室賀の代わりに貴様の首を はねてやるわ!室賀を出すか、貴僧の生首を渡すか!」 瑾英「よかろう。居らぬものを渡すわけにはいかぬから、 衲の生首を渡そう」 官軍「よし!それでは」と刀を抜かんとす。 瑾英「待て!衲はな、生来酒が好きでな。冥土の土産に 酒を飲ましてくれ!」 官軍「よかろう」 瑾英、台所より一升徳利を持参し、官軍代表七人の前に 坐禅をくんで、チビリチビリと飲みだした。 これを見ていた直前の隊長が舌なめずりをした。 瑾英すかさず「貴公も一杯どうだ!」と杯を差し出した。 隊長思わず手を出して杯を取る。 瑾英さっとなみなみとついでやった。 隊長うまそうに飲みほした。 貴公もと隣りの隊員にものませた。 ここで瑾英しめた!と思い、 瑾英「貴公達!どうせ拙僧の生首は差しあげるから、 拙僧の話を聞いてくれ」 官軍「よかろう」 瑾英「諸君が諸君の藩主に従って、朝廷に奉公する 義心も、室賀が徳川家の家臣として長らく恩顧を受けた 恩義に殉ぜんとするのも、義心に於て変わりがない ではないか。貴公等の目指しているこれからの 新日本建設は逃げる者は追わず、弱き者は助けて やった赤穂四十七士の義士の精神によらざれば出来ない 難事業であるぞ!その精神の提唱者山鹿素行先生が、 そこに眠ってござる!まあ、衲のいう真意が 分かったら、何時でも衲の生首を持ってゆくがよい!」 と泰然自若として死線上の説法をなし終わった。 官軍「この和尚、どえらい和尚だ!後日何か役に立つ だろう!」 といって立ち去った。 この事件が縁となって、西郷隆盛が瑾英和尚と しばしば会見している。 こうした事もあって、文明評論家の哲学者田中忠雄氏は、 明治の三傑として、明治天皇、西郷隆盛、西有穆山の 三人をあげるのである。穆山禅師略伝