文久二年(一八六二年)瑾英和尚四十二歳となる。 後年、国立東京大学印度哲学科の開祖となったえら 豪僧原坦山和尚が三ヶ月で逃げ出し、辛抱強さの シンボルといわれた後の大本山総持寺独往二世畔上 楳仙和尚でさえ三ヶ年しか居れなかった海蔵寺の貧乏 生活と、無類の厳励苛酷の月潭老人の膝下に十二年間 隠忍自重、辛苦精励したのが瑾英和尚只一人であった。 だから当代の宗学者、正法眼蔵提唱の第一人者と なったのである。衣鉢を継ぐとか、師(師匠)資 (弟子)二面裂破とか、その道の奥義、真諦を完全に 相続授受する事を簡単明瞭な言葉で表現している。 瑾英和尚こそ月潭老人の全人格、全正法眼蔵を相続 した大師家である。その証明を展開しよう。 或日、師匠の月潭老人の方から如来寺の瑾英和尚を 訪問した。昔の御師家様は真に親切です。如末寺を 訪問した月潭老人は瑾英和尚と夕食を共にし、十二年 間能く忍び、能く学び、能く実行した中に色々面白 かったこと、つらかったことなどを語りながら一偈 (詩)を作り瑾英和尚に呈示したのである。 それは、 富嶽の巽兮三島の乾 靈龕年古りて草芋芋 兎経一路水に隨うと雖も 菜葉流れず徳自ら鮮なり(原漢詩) という一詩である。 日本一の秀嶺富士山の東南に当り、清冽な三島川の 西北方に位する如来寺の靈龕に長年月わだかまって いた真竜が、今や天高く伸びてその茂りが見ごとで ある。 今日まで十二年間(早川の)小路をひたすらに水の 流れに随って来たけれども菜葉も流れることなく 長年月錬行修行の徳の光が自然に鮮明に輝いている。 今や瑾英和尚は、日本一の靈峰富士山のもと、三島川 の清冽な水に身も心も浄め、その徳光が富嶽に映じて 清鮮な輝きを発するに至ったのである。 月潭老人の印可証明の詩は、瑾英和尚が東京駒込の 吉祥寺栴檀林時代に於て、既に漢学、宗学等を修得 して博士の実力を持ちながら尚進んで海蔵寺に於て 宗乗を学び眼蔵を窮尽し、奕堂門下に於て乾坤を撲落し、 修禅寺梅苗門下に於て、劫火洞然として脱落身心して、 如来寺に於て多くの若き雲水に講義、提唱している 勇姿を称讃し、免許皆伝したものである。穆山禅師略伝