福聚山大慈寺ふくじゅさんだいじじ

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桂英和尚の面目


@ 如来寺の復興と箱根越え

  安政六年三十九歳、瑾英和尚請われて、
  静岡県三島市郊外長泉町の如来寺の住職となる。

  如来寺は海蔵寺の末寺で、月潭老人が是非にと
  瑾英和尚に頼んだのである。

  平僧地であったのを一ヶ寺の法地寺院として
  恩師月潭老人を開山として勧請し、自らは中興
  二世となった。

  私は昭和四十六年八月に如来寺を訪問して
  瑾英和尚の人間離れした威神力に打れて感動した。

  昔から「箱根八里は馬で越す」とか、「箱根の山は
  天下の嶮」とか云っているように、武具に身をかた
  めて馬で通っても身の毛が彌立つ場所が沢山
  ある箱根の嶮路を網代惣一つで毎日往復したという
  からその求道心と教育愛の不惜身命の激烈さに
  驚いた。

  如来寺より小田原市の海蔵寺までは十里あります。

  この十里の嶮路を往復して、如来寺では自分を
  慕って集まった修業僧の為に経典や祖録を講義し、
  海蔵寺では月潭老人の正法眼蔵の提唱を活捉する
  為に勇往邁進した瑾英和尚の勇姿を箱根の山中に
  立って偲んだ時、私の目から涙が無性に流れて
  どうすることも出来 なかった、そして天下第一の
  正師に一度でも会いたかったという慕情の激流が
 静かな葦の湖の水面に向って、はげしく走って
 いった!

  ぐずぐずしておれぬぞ! やるぞ!という覚悟を
 新たにさせられた。

  如来寺八世黒田真禅住職夫人の語るには「禅師様
 在住の時には檀家は二十戸しかなかった。現在は
 百五十戸になりました。禅師様のご苦労を偲ぶと
 涙が出てきます」
  と目頭を熱くしていました。

  今の如来寺は三門、本堂、庫裡、観音堂など立派
 に建立されて、禅師の徳を讃えています。

  如来寺には禅師愛用の絡子と、禅師筆の観音像と、
  その賛があります。

  その賛は、あしき人見るたび毎に啼く菩薩 
 よき人に なれよき人になれとあります。
 
A 雪団熱湯裏に豁然として大悟

  安政六年(一八五九年)瑾英三十九歳となる。
  月潭老人は、この辺で坐禅専門の道場に行って
 みたらどうだろうと勧めて、前橋市の竜海院に
 諸嶽奕堂師(後の大本山総持寺独往一世)の門を
 たたかせた。

  奕堂門下には百人以上の修行僧が雲集していた。

  奕堂師は瑾英を一見して、凡人に非ざるを看破し、
  ただちに副寺(財政部長)に抜擢し、毎月の一日、
 十五日の小参(修学僧が問答すること)には払子
 (導師を勤める道具)を瑾英和尚にわたして、
 「小参は副寺和尚に一任す」といって自分は
 方丈の間へ帰られた。

 その直後、本堂では火の出るような命がけの法戦
 問答が闘かわされた。瑾英和尚の行解(坐禅と学問)
 両全の人格の力量が、修行僧の質問に対して烈火の
 如く爆発し、激流の如く奔流したのである。

 既に瑾英和尚は一家の大宗将であった。

 当時早くもその道誉称賛が大本山永平寺にも聞えて、
 瑾英和尚は不老閣(永平寺貫首の室)に登って
 靈堂禅師に相見するに至った。

 万延元年(一八六〇年)四十歳の時、瑾英和尚
 奕堂老師の専使として、沼田市迦葉山竜華院に趣き、
 帰途紛々と吹きしきる雪中に射体をこおらして帰り、
 オー寒いといいながら
 行者の出した盥の熱湯に足を入れてしまった。
「あ!あつい」と叫んで足をひきあげる刹那、
 行者がすばやく庭にとび出し、かかえてきた雪の
 かたまりを湯の中にたたきこんだ。

 雪はしゅっと音を立てて溶けてしまった。
 
 瑾英和尚これを見て豁然と大悟した。

 小にして人間個々人に於ても、大にして宇宙天地全体
 に於ても原形そのままで停止したり、人間の欲望の
 ままになるものはない。

 春夏秋冬の変化は自然の法則、春来れば百花爛漫、
 秋来れば万山紅葉、 春は花 夏ほととぎす 秋は月
 冬雪さえて冷しかりけり――

 の宗祖道元禅師の親訓がここにも露現したので
 あります。

 それを我々人間は冷たいといって苦情をいい、
 熱い!と叫んで力んでみたり、雪のかたまりを投げ
 込んで洗足盥をひっくりかえして、大騒ぎしたり、
 大笑いしたりしている一駒を、自分も演じたもので
 あるわい。とうたって、方丈の間に上り、奕堂師に
 一部始終を報告申し上げてから更に静かに、等閑りに
 口を開いて心肝を吐く 漸愧す従来習気の残すを 
 地の身を容るる無し何が歩を転ぜん 
 この時知んぬ棒頭を免かること難きを 
 そしてその光景、否真実の相を 雪団団を把って
 熱湯に投ずれば 乾坤撲落して妙高僵る 
 知らず今日何の時節ぞ 銀槃を賜倒して笑い一場
 (原漢詩)

「雪のかたまりを把って熱湯に投げ入れると、しゅっと
 いう音と、立ちのぼる水蒸気になってしまって、
 雪の形もなく、又熱湯そのものもない。この宇宙も
 天地も亦同様に打ち落され、その背骨をなしている
 須弥山も崩れ落ちて、雲散霧消してしまった。
 一尺も降り積った雪に冷たい寒いと思って、身も心も
 かたくして帰り来たり、思わず熱湯に足を踏み入れて、
 「アッーあつい!」と叫んだのも、雪が熱湯にとけて、
 しゅっと音を立てたのも、みな任運自然、
 時節の一片に過ぬ、そもそも我々人間の我見妄情に
 よって維持され支配されるものは、時間的には
 一瞬一時節と雖も、空間的には、六尺足らずの身と
 雖も無常にして常住ならざるものはない。」
 という一偈を呈上した。

 突堂師はただちにその韻をふんで、
 
 口を開けば即ち看る生鉄肝
 
 聞くに耐えたり声外菊香の残するを
 
 許す師が持地三寸を伸べ
 
 虚空を喝破するも也た難からず

 と印可せられた。

 これに対して瑾英和尚は更に韻を重ねて、宗師に
 請うて鉄肝を砕かんと欲す啼くを止めて還って恨む
 藕紙の残するを自ら慚づ平日純密ならざることを
 重々の金鎖を脱得すること難しといって印可を返上
 申し上げると、奕堂師も更に韻をたたんで、
 用いず樹頭柱げて肝を掛くることを

 胸襟吐露又何ぞ残せん

 参禅学道は須らく此の如くなるべし

 金鎖玄関豈に難とするに足らんや

 といって印可証明せられたのであります。

 昔の御師家様(最高指導者)は、まことに叮嚀、
 親切で頭がさがり涙が出て参ります!。

B 劫火洞然の公案

 文久元年(一八六一年)四十一歳となった瑾英和尚、
 静岡県伊豆の修善寺に師家梅苗和尚が居り、
 「劫火洞然」の公案をかかげて峻烈な接得指導を
 しているを聞く、修行には私見を入れてはならぬ、
 喰わず嫌いは自己を小さくする。よし行ってみよう!
 坐禅専門と思て来た奕堂師は只の禅定家(坐禅ばかり
 の師家)ではなかった。

 その入格たるや抜群であったし、印可証明の仕方も
 親切丁嚀であり、詩偈を駆使して誘導して下さると
 いう有難い御師家様であった。諸国を行脚して知識を
 とぶらうことは修行僧の一番肝要なことである。

 よし行ってみよう!

 かくして竜海院を送行(修行を終えて去る)した
 瑾英和尚は、公案禅の巨匠梅苗和尚を修禅寺に
 訪ねたのである。

 梅苗和尚は、長野県松本市の全久院二十九世
 提宗元綱和尚に随身参究した人である。

 この元綱和尚一生涯、劫火洞然の公案一則を以って
 修行僧を指導接得した。

 瑾英和尚はこの梅苗和尚に一年間随身して、劫火洞然
 の公案を徹底証得したのである。

 そして、公案を拈提する場合、劫火洞然の公案を最も
 得意としたのである。

@ 劫とは?

 さて、大智度論第三十八に「時中の最小なるものは
 六十念中の一念なり、大時を劫と名づく」とある。

 故に、劫とは広大無限の時間の事である。

 その無限の時間を説明して、

(A)第一に、芥子劫と云う説明がある。極く小い
 ことを説明するのに「芥子つぶ」ほどの大きさと
 云いますが、その「ごく小い」と云うことを念頭に
 おいて「芥子劫」の説明を会得して下さい。

 雑阿含経第三十四に「鉄製の壁があって、その大きさ
 は四方三十里、高さ三十里あり、その中に満杯に
 盛られている芥子粒を、百年に一づつ運び出して無く
 なっても猶一劫に足りない」と云う説が芥子劫と云う
 時間である。

(B)次に、磐石劫である。

 菩薩瓔珞本業経に「四方十里の磐石を、天人が重さ
 三銖(軽量)の羽衣を以て、三年に一度払うことに
 よって、この磐石が磨滅し尽される時間を一小劫と
 いう。又、四方八十里の石を三年に一度払うことに
 よって磨滅す時間を、一大阿僧祇劫と云うのである。

 以上の様に芥子劫も磐石劫も優大な譬喩を以って、
 我々人間に悠久無限の時間を教えている。

 そして、この劫説は、単に縦の線の時間を単独に
 説くのでなく、横の空間即ち宇宙の成立及び、
 破壊等の経過に関連して説くところに特色がある。

 それらについては紙面上省略する。

 瑾英和尚は、公案中で最も深遠な仏教哲学を包含して
 いる劫火洞然を参究し会得し尽して、すべての提唱に
 活用されたのである。





穆山禅師略伝

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曹洞宗

福聚山 大慈寺

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