福聚山大慈寺ふくじゅさんだいじじ

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月潭老人の風格


月潭老人は、実にかくれた大宗将で、その教育法は、
古往今来無比の峻烈苛酷を以て道誉の高かった
正法眼蔵の大家であった。

金英和尚は能く忍び、能く学び、能く行じて月潭老人
の全人格、全学識、全力量を一器の水を一器に
うつすが如く活取したのである。

茲に老人の風格をしのぶ数個の実話を述べて御参考
にしましょう。


@ 注文と催促が同時
 僅英和尚は嘉永四年(一八五一年)三十一歳にして
  海蔵寺の典座職(料理部長)となる。

  修行僧五十数名の食物を調理し且、四書、五経、
  典座教訓等を講義するを任務としていた。老人は
  臨時の突然の来客あり、用談が済むと典座和尚を呼び、
 「何か御馳走を頼む」と命じ、瑾英
 (月潭老人金を瑾と改名してくれた)典座が典座寮に
  帰ると、すぐ追いかけて行者(小間使)をお膳を取り
  によこす、その時、

  速刻御膳を持たせてやらぬと御気嫌が悪い。

  そして御気嫌が治る迄、講義も提唱も中止となる。

  注文と催促とが同時である。

  そこで、瑾英和尚は門の中に足音が聞えると、障子を
  細目にあけて、あの御客には御膳を出さねばならぬ
  と判断すると、即刻部下を集めて、お前は米をとげ、
  お前は海苔をやけ、お前はやっこ豆腐をつくれ、
  お前はお爛の支度をしろといいつけて、それぞれ準備
  を完了して、老人の呼び出しを待つ、予期通り行者が
  呼びに来る。

  何くわぬ顔して老人の御話を聞く、典座寮に引き返す
  と同時に行者(小間使)が御膳を取りに来る。

  一品をつけて御膳を即刻持たせてやる。

  そして次から次へと準備の料理を運ばせる。

  月潭老人は、大喜満悦で講義にも提唱にも一段と力が
  入ると云う工合でした。

  この典座の役を七ヶ年間つとめあげたのが、後の
  穆山禅師なる瑾英和尚である。

  宗祖道元禅師は「典座教訓」と云う著述をなされ、
  料理人としての心得を「人間最上の聖なるつとめ」
  として親切叮寧に訓誠されています。

  真実人間の生命否聖人の聖体を保養し、その生命を
  活かす聖業が典座(料理部長)の聖なる任務であります。

  そして、俊豪月潭老人の活機輪と俊英瑾英和尚の
  求道の熱鉄心とが来客用の料理板上に於て交錯転展
  して停止する所を知らなかった。

  茲に正法眼蔵と涅槃妙心(仏心)が完全に相続された
  のである。


A 一天四海皆帰妙法

  月潭老人は、道号を金竜という、奇しくも金英和尚の
  出家得度の師金竜和尚と竜が同じである。

  この竜なる月潭老人は、一面豪放にして短気に思われ
  る点があるが、それは法を重んじ、道を愛し、求道人
  を救済せんが為の熱情赤誠の発露である。

  月潭老人は九州熊本の出身で、生家は日蓮宗の檀家で
  あった。

  お母様が八十歳になられて、月潭さんに会ってから
  死にたいという便りをよこしたので、月潭さんが
  故郷に帰られて、御見舞申しあげると、母上は大変
  よろこばれて、菩提寺の和尚さんも御招きして、御馳走
  することにした。

  ところが、菩提寺の和尚さんは、大変不気嫌で、入って
  くるなり、いきなり「月潭、お前不届な奴だ!」と罵倒
  した。

  老人は、穏やかな顔で、静かに「何故でございますか」
  と問うと、和尚さんが、「何故、禅天魔になった。

  妙法様の貴いことを知らぬか!」と攻撃して来た。

  月潭さんは、「妙法様は、どこが貴いのでございますか」
  と尋ねると、和尚さんが、「一天四海皆帰妙法ということ
  を知らぬか!」と怒鳴った。 

  月潭、静かに火鉢にさしてあった火箸をとりあげて、
  ぬっと和尚の鼻先に突き出して。 

 「お拝しなさい!」というと、和尚

 「それ!それだから禅天魔というのだ。火箸を礼拝する
  者がどこにある!」と、いい切らぬうちに

  月潭「一天四海皆帰妙法!どこに火箸がある!」と、
  つめよると、和尚は真さをになり、撫然として立ち去った。

  八十歳の母親は、ニコニコして、これを見ていたが、
  月潭よ、いい供養したね。と親子水入らずで御馳走
  を食べ、なごやかな一日を楽しんだ。問答の間、
  月潭さんは、顔色一つかえなかった。

  月潭老人は常に、かくの如く随所に生きた説法をする
  活人剣の師家であった。一天四海の万物が皆妙法に帰する
  ならば火箸も妙法そのものである。

  況や八十の老婆が親切心を以て、菩提寺の和尚さんに
  供養しようと御招待したのに、その息子の月潭さんに
  非礼な態度を取り、問答ならよいが、罵倒し、侮辱する
  という態度は、妙法の妙も、法華経の法も知らぬ論語
  詠みの論語知らず、半可通の哀れな僧侶である。

  現代の宗教界にも、これに酷似した偽宗教家のあること
  を警戒せねばならぬ。

  瑾英和尚は何事に対しても徹底的に参窮した性癖は老人
  よりの影響か大であると思う。

B 暗夜の中で命ぜられた本を引き出す。

  月潭老人は大変な蔵書家で、二本立の本箱を三十箱も持たれ
  書庫にならべていた。

  瑾英和尚はこの書庫の管理をまかされていた。

  月潭、「瑾英、眼蔵註解書第何巻を持って来い」と
  命ぜられると、暗夜手さぐりで間違いなく、速刻持参
  出来るようになった。

  最初は「命ずると同時の催促!」の家風であるから、
  灯りをつけ、目録を見、本箱をしらべている中に、
 「なにをしておるか!早く持ってこい、この間抜けめ!」
  と怒鳴られたのであるが、何千冊という書物が書棚の
  大きさと共に、瑾英和尚の脳裏にきちんとかって整理
  されていたのである。
 
C 名聞坊主出て行け

  月潭老人の膝下には多くの傑人が雲集したが、
  その一人に後の大本山総持寺独往二世の貫首畔上
  楳仙禅師がいる。

  月潭老人は結制修行といって、規則で定めた正規の
  修行期間中は、寸分の隙も人情も差しはさまぬ、
  峻厳そのものであったが、解間といって自由研究中は、
  大変寛大で、鳴らし物もさせなかった。

  ところが、楳仙師は謹厳そのものといった型の、
  真面目な人柄であったから、関佐禅林として有名な海蔵寺
  に於て、たとえ解間中でも鳴らし物をせぬと怠けている
  ようで外聞が悪い、況んや、解間中でも宿泊して参禅する
  者や、昼食を取り聞法してゆく修行者が始終出入している
  から、この修行人達が「海蔵寺は鳴らし物もせぬだらしの
  ない修行寺だ」などと吹聴したら困ると思って、
  自分で梵鐘を鳴らしたのである。

  すると、月潭「鐘を打ったのは誰だ!」と大声で怒りだした。

  楳仙師老人の前に出て「私でございます。

  拝宿や点心している修行僧への手前もありますので鳴らし
  ました」月潭「この名聞坊主め、出て行け!」と
  怒髪天を衡く勢いで下山だ!と破門退出を命ぜられた、
  月潭老人は云い出したら容易に引込めぬ性質であることを
  知っている修行僧達は、誰も出てゆかぬ、瑾英和尚
  同参親友の一大事と思い、「老師様、楳仙さんは馬鹿真面目
  な事を御存知でございましょう。馬鹿相手にしたら老師様
  の徳を損じます。拙にまかせて下さい。」

  月潭、「そうか、仕様がないな。鐘はへらぬから勝手にしろ」
  でけりがつきました。

  楳仙師が謹厳そのものの性格であったことは、老人もよく
  知っておられたから、そこを衝いて老人の心の転換を計った
  のである。

  又、瑾英和尚が老人の大の気に入りであったから
 「そうかそうか」ということで落着しました。

  かくてことなきを得た二人は、月潭老人の信用を高め、
  片や瑾英和尚は一山の料理部長(典座)片や楳仙和尚は秘書
(侍者)を勤めて、二人共後日大本山総持寺貫首、曹洞宗管長
  となるのであります。
   
D 瑾英と坦山

  瑾英和尚海蔵寺の月潭門下に入門した事を聞いた原坦山が
  翌嘉永三年(一八五〇年)に海蔵寺に来て月潭門下の人と
  なった。

  二人とも豪傑肌で意気投合した。

  或日二人が所用で出掛けて大井川を越える事となった。

  川岸に来ると一人の妙齢の女性が居て行先が同じであった
  ので瑾英がヒョイとおよって川を越してやった。

  ところが向う岸から一緒に歩いている坦山が如何にも
  不服そうな顔をしていた。

  瑾英が坦山にどうしたんだと聞いたら、坦山がむっとして
「なんだ修行中の者が女など背負って」と攻撃してきた。

  瑾英即座に「ナンダ!君は未だ女を抱いているのか、
  僕は川岸で捨てて来て何もないよ!」とやり返した。

  二人とも負けず嫌いであったが、瑾英は眼蔵の大家となり、
  大本山総持寺独往三世貫首、大本山水平寺西堂となり、
  坦山は総理大臣黒田清隆に実力を見込まれて、
  小田原市大雄山最乗寺の住職御前様となり、
  又東京帝大の印度哲学科の創立者として迎えられ、
  今日の東大印度哲学の隆盛の基礎を築いたのである。

穆山禅師略伝

寺院 散策写真


曹洞宗

福聚山 大慈寺

住所:八戸市長者1丁目6−59

電話番号:0178-22-1856