福聚山大慈寺ふくじゅさんだいじじ

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金英の選んだ道


嘉永二年(一八四九年)に父長次郎の訃音に接し、
速刻帰郷して葬儀万端を済ませた。

時に恩人金竜師の住職寺たりし法光寺に住職無し、
法類知友等が「江戸の鳳林寺住職その他を辞職して
法光寺の住職となり母に親孝行し乍ら故郷の人心
教化をしてほしいと勧誘依頼した」金英和尚性来
の親孝行の情の厚い仁なれば、母の近くに来て
親孝行し乍ら教化活勤しよう!と心が動いたのも
無理がない。

よって法光寺住職として故郷に来る事を内諾した。

これを聞いた母なをさんは金英和尚を呼び寄せて、
「お前さんが、出家する時に、日本一の名僧知識
となって、親兄弟等九族を極楽に御案内出来る
まで頑張ります」と誓って出家したではないか。

この母は現在のお前さんが日本一の名僧知識
であると思わぬ、東北一の学僧になったからと慢心
するな!法光寺なんかに住職して南部の木葉長老
(南部地方の僧侶は秋に木の葉が紅葉するように、
それだけの学徳経歴がなくとも赤い法衣を着たがった。

それで本の葉長老と悪口云われた)になる気か!

そんなことなら親でも子でもない。

二度と我家の敷居を跨ぐな! 

…裂火の如く怒り障子を閉めて出ていってしまった。

金英和尚は母の竣厳正当な訓誠を受けて自分の小心の
浅慮を恥じ、心底より懺悔して。
 
「お父様を極楽に案内出来るようにならう!と全身心に
不退転の覚悟を刻み込み、母上に深く御詫びして江戸に
戻り、鳳林寺住職、栴檀林学舎の講師等一切の役職と
その他を辞職し、東北第一人者の自負心も、若い新進
気英の学僧と云う名声も一切を投げ捨てて、小田原市の
海蔵寺住職月潭老人を訪ねて門弟にしてほしいと願った。

月潭老人は「この寺は貴公を養う力がないわ!トットト
帰れ!」とけんもほろろにことわった。

金英和尚即座に「食べる分や光熱費は拙僧が働きます!
どうぞ門弟にして下さい!」と、目玉をギラギラ輝やかせ
ながら老人の顔に迫った。

その徒ならぬ気迫を受けた老人は「勝手にせえ!」
と吐き出して方丈の間に帰った。

暫らくして弟子が盥に温湯を入れてどうぞと出してくれた。

金英和尚は涙を盥に落し乍ら感泣して手足を濯ぎ弟子の
案内する室に安堵の袈裟行李を下した。

時に嘉永二年(一八四九年)四月、金英二十九歳であった。

そしてこの老人に身も心も十二年間まかせ切ったのである。

これが金英和尚の選んだ道である。

翌喜永三年原坦山来りて同門学友となる。

この坦山は後に宰相黒田清隆に抜擢されて
東京帝国大学印度哲学科の創設者となった仁である。


穆山禅師略伝

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曹洞宗

福聚山 大慈寺

住所:八戸市長者1丁目6−59

電話番号:0178-22-1856