金竜師、地方の名刹法光寺に晋住、金英、師匠と 共に法光寺に上る。金竜師病床にふす。金英その 快復を祈って三週間断食喫斎祈願す。 師全快して金英の心情に感謝し、より綿密な訓育 に力を注いだ。 金竜師は地方の知識名僧で、性質恬談、機智円明、 闊達自在の人材であった。青少年の感受性の強かった 金英にその影響甚大であった。その一例を挙げよう。 長流寺の門前に、鳥斤きの爺さんがいて、始終 和尚さんの所に来て仲よしであった。 或日爺さんが「和尚さん!私か死んだら、鳥に 関係ある戒名をつけて下さいごと頼んだ。 やがてその日が来た。 金竜住職は、雁鴨白鳥信士と戒名を授けた。 そして葬式の引導法語は「唐にては鳳凰を神鳥と して尊び、天笠の人孔雀を喜び、雁は千里長空を 飛翔し、鴨は身を山蔭に示めヽ鶯法華経の功徳に 依って、鳥喝!」と引導した。 禅気に含まれたユーモアな風格、心情が、感受性 の多い少年金英の皮肉骨髄に浸透したのである。 長流寺、法光寺の二ヶ寺時代七ヶ年親訓を受けた 金竜師が、天保十一年八月九日遷化せられた。 金英意を決して仙台市松音寺悦音師を訪ね門下生 となる。時恰も大飢饉、死骸街路に充つ、金英 死骸間に坐禅して魂膽を練る。 而して一年にして仙台領内の漢籍仏書を読み尽す。 悦音和尚抜群の偉才なるを知り、我が後継者となる 事を懇請す。 金英確約をせざるも悦音師の好意に謝して江戸に 向う、宗乗専攻の道場駒込の吉祥寺栴檀林に身を 投ず、時に二十一歳。 翌年儒学者菊地竹庵教授に入門、酷暑中竹庵先生 は裸、金英は綿入の着物で酷暑三昧で研究精進す。 金英の流汗淋漓の状を見た裸の先生曰く、 君!着物を表と裏の二枚にして、交替に着給え! 金英、なる程!先生御免なさいと、先生の云う 通り裏と表を交替に着て赤貧の苦学を続けた。 門前の本屋で立ち読みして叱られたが、毎日通う ので其の熱意が認められ、必要な本を一切持ち 帰って読み給え!と特別待遇を得た事も此の頃である。 金英は吉祥寺住職愚禅師より正法眼蔵の提唱を、 新宿区弁天町宗参寺住職曹隆様(八戸市松館 大西家出身で同郷の誼で特別御世話になった) を法憧師として立職(長老になる式)した。 そして、曹隆様の弟子である浅草の本然寺の 住職泰禅師に嗣法して和尚の位に昇った。 更に翌年東京牛込の鳳林寺第十五代目の住職となった。 時に天保十四年二十三歳であった。此の年国学者 平田篤胤が死去し、又、老中水野忠邦が失脚した。 住職になっても慢心を起さず、当時の学僧仏関師、 宗桓師等に参師問法し、愚禅師家について正法眼蔵 を更に研究し、工風坐禅日夜怠らず、江戸中の若い 学僧として頭角を現わし、鳳林寺に於て、 法憧を建て、我と思わん者は誰でも来て問答説破 せよ!と祝国開堂し、大問答、大説法して大和 尚の位に昇進した。時に二十七歳なりき。 此の年天草に百姓一揆がおこった。穆山禅師略伝