@ 明治三十八年二月十五日、大本山総持寺移転先 も内定したので、これからの本格的移転再建の 大事業は、監院石川素童師の敏腕を思う存分 発揮させるべきであると御慈慮なさり、法鼓を 打って、古巣の西有寺に隠退した。 A 禅師は、西有寺を安住の地とし、且つ最後の力 を人材養成に尽くされました。 筆者は、西有寺専門僧堂勤務時代(昭和八年より 二十年迄)に、晩年の禅師様を乗せて、横浜市内 を散歩したという人力車夫さんに、晩年の禅師様 の生活の御様子を色々御間きしましたが、車夫 さんの云うには、禅師様は、毎日のように、 西有寺の境内を一周して点検して廻ったそうです。 又、岸沢老師から御聞きしたお話ですが、禅師様 は境内を修行僧が掃いている掃き方を見、 ドレ箒をかしてごらん、と云って箒を取り、 サッサッと軽く箒をうごかして、塵だけを掃き 寄せて、こういう風に掃くものだよ!境内の 地面は仏様の肌であるから傷をつけないように 掃かねばなりませんよ!と親しく優しく教えた そうであります。 禅師様は、終焉の地である西有寺の境内をこよ なく愛されました。 B 米寿祝賀会 明治四十一年四月十二日、東京芝青松寺に於て、 米寿の祝賀会が開催されました。発起人は、 可睡 斎住職日置黙仙師、大隈重信、徳川義礼、 釈宗演、大内青鸞等政界、財界、宗教界の 最高メンバー壱百余人で、未曽有の盛況で ありました。 禅師八十八年の実績と高徳を称讃して、代理人 でなく、本人が臨 席したことによって、 禅師の感化力の偉大さを証しています。 C 禅師の御遷化の御様態 禅師は、袖は明日遷化するから、今晩入浴する よ、と仰せられて、自らの力で御入浴せられ、 門弟、弟子を集められ、古来禅僧は坐脱立亡 等種々の遷化をせられているが、衲は平常底 で遷化するから、布団を敷いてくれ、 いよいよの時刻には知らせるから、衲を起して 坐らせてくれ。肩をたたいたら、御袈裟を かけてくれ。と仰せられた。 D 明治四十三年十二月四日、禅師様は、西有寺 方丈の間に於て弟子門弟に見守られ、 南無観世音菩薩を称え始められた。 「肩をハタとたたき」御袈裟をかけさせ、 坐禅せられた。 そして、そのまま静かな呼吸がとまった。 禅師様の表情はその侭で変らなかった。 弟子門弟達は、禅師様を、その侭、曲録に御坐り させて、法堂で、三日間、あまねく、法類門弟 檀信徒に拝ませましたが、異口同音に、 「禅師様は生きておられるようだ!」 といいました。 同年十二月八日に、西有寺に於て密葬し、 同午后五時、大本山総持寺墳墓に納骨されました。 葬送の列は西有寺より大本山総持寺までつらなった といわれています。 遺偈は老僧九十 言端語端 末後の句無く 月冷やかに風寒し 禅師九十年の生涯は、真に言語端正にして、少しの 邪語悪言無く、一言一句、一挙手一投足、悉くが、 宇宙の真理を全現した聖句の連続であり、世間的の 最後の一句を遺す必要の無いことは、俳聖芭蕉翁の 一句一作が遺言の句であったと同様であります。 太陽は永遠に温かく、月は永劫に冷やかに、禅師の 家風も万劫に冷厳で、世の明星となって、現世に 生きているのである。穆山禅師略伝